ぼくの相撲求道録

北の湖、千代の富士時代からの相撲ファン。横綱双葉山にも興味を持っています。ブログタイトルは双葉山(時津風定次)の著書『相撲求道録』から拝借しました。

横綱相撲とは――「横綱白鵬"孤独"の14年」を見て

NHKスペシャル横綱白鵬"孤独"の14年」を見た。

 

(以下、写真は同番組から画面を撮影したもの)

 

番組中「横綱の品格とは」と問われて「鬼のように勝ちに行き、土俵を降りれば優しく」

と答える一方「横綱相撲とは」との問いには「勝つこと」と答えた。

 

「いくらいい横綱でも、優しくても、土俵で結果を出せなかったら引退しかない」と。

大鵬の言葉

白鵬双葉山を目標にしたとしばしば言っている。この番組の中でも「こういう横綱を目指したいという気持ちがあった」と語った。

 

だが双葉山よりも、どちらかというと親交のあった大鵬の影響の方が強かったような気がする。

 

横綱になると真っ先に大鵬を訪れ、五時間も話し込んだという。

その大鵬の言葉で最も衝撃を受けたのが「わしは横綱になったとき『引退』のことを考えていた」だった。

 

大鵬の相撲は、くの字型に腰を引いて無理をしない「負けない相撲」と言われ、それに対しては「退嬰的な『小さい相撲』だ」という批判もあった。

 

大鵬の「負けない相撲」、白鵬の「勝ちをもぎ取る相撲」、真逆のようだが、「横綱は負けてはならない」と「勝たねばならない」はコインの裏表だったのではないか。共通していたのは「勝敗へのこだわり」だったと言えるかも知れない。

 

その後、「勝たねばならない」という思いばかりが、いわば独り歩きを始めたように思える。生々しい言い方をすれば白鵬の中で「勝たねばならない」という観念ばかりが肥大化していったような・・・。

 

大鵬が存命なら「そういうことじゃないんだ」と言ったかも知れない。しかし大鵬もすでに亡く、貴闘力も指摘していたが、横綱学とでもいったものを指南してくれる人も身近にいなかった。

もし双葉山と会っていたら

白鵬が関心を寄せた双葉山が、最もその真価を発揮したのは六十九連勝当時ではなく、その三、四年後、1942~43年に四連覇した時期、ことにその後半、二場所連続全勝の時だと言われる。そこにおいて受けて立つ立ち合いの極致「後の先」を完成させたと。

 

だが、翌1944年には、衰えを見せ始める。「受けて立つ『後の先』の立ち合い」は、気力、体力の充実しきっている時には無敵の強さとなって表れたが、衰えるとその虚を突かれることになる。同年夏場所、照国に寄り切られた相撲はその典型だった。

「受けてばかり立つのは無理だ」

角界最高峰の横綱として、相手の声で立つのはいかにもしかるべき矜持だが、下位の者はともかく、同格の者には無理が生じる。仕切りの時間を一貫して気力を充実させることは至難の業で、しかも相手は自分の気合が満ちたとき、その虚をついて立ってくるのであるから、当然悪いところでも立たなくてはならない。双葉山の信念は首肯できるが、それに膠着せずに考えてもいいのではないか」

もっともな見方であるが、双葉山はその立ち合いを変えなかった。勝つがための立ち合いはしなかった。相手の声を受けて立つことを変えようとはしなかった。ただし、それを支える気力が衰えてきたことは否めない。それをもってよしとしていたであろう。

(『わが回想の双葉山定次』小坂秀二著/読売新聞社 225~226ページ)

自分の相撲が通じなくなってきたら、それを是非なしとした双葉山。「勝たなければならない」しかし「勝てなくなってきた」そのとき相撲ぶりを変えてなりふり構わず、もぎ取るように勝ちを掴みにいった白鵬。両者の「勝負哲学」の違いといえばそれまでだが・・・。

 

【若手が信頼してぶつかっていった】

双葉山(左)-増位山1943年夏場所

 

双葉山で、もうひとつ触れておきたいのは「対戦相手が信頼してぶつかった」こと。

1940年代、豊島という力士がいた。東京大空襲で25歳の若さで死去したが、生きていれば大関は望めた。兄弟子の安芸ノ海などは「あいつが生きていれば横綱になれただろうな」と言ったほどの有望力士だった。

 

その豊島の、1944年夏場所での羽黒山戦と双葉山戦を小坂秀二氏は、こう比較している。羽黒山も当時の横綱。同じ立浪部屋で対戦はなかったが、双葉山に次ぐナンバー2の強豪横綱で、双葉山が衰えた後は第一人者となった。全盛期が戦中、戦後の混乱期でなければ、もっと活躍していただろう。そういう力士である。

・・・豊島の相撲を見ると、双葉山との相撲と羽黒山との相撲は明らかに違うのである。双葉山に対したときは、全身をぶつけて、なんの迷いもなくぶつかっている。

ところが、羽黒山に対したときは、そこまで思い切ってぶつかっていないのである。おそらくそれは「ひょっとしたら変わられるのではないか」という不安であろう。この一抹の不安が、豊島の出足を十分なものとはなし得なかった。

双葉山のときはそういうものが一切ない。全身をもってぶつかっていけば全身で受け止めてくれるという信頼感が見受けられる。こういう気持ちでぶつかっていくのだから、その威力、迫力は大変なものである。(中略)それほど、豊島が自分の全力を、安心してぶつけていけるほどの信頼感を持てる相手というのは、相手として最高のものではあるまいか。

(『わが回想の双葉山定次』262~263ページ)

双葉山に対しては、若手は思い切って自分の力をためすことができた。そして小坂氏によると、こういう思い切って当たってくる、いわゆる「タチのいい」力士に、時には負けることを双葉山は喜ぶようなところがあったという。「この野郎、ガイにしやがって」と笑っていた、と。双葉山本場所の土俵で若手を育てたと言ってよい。

白鵬は、立ち合いのカチ上げで相手を昏倒させたことがあった。これは「育てる」どころか「相手を壊す相撲」だ。むろん対戦力士は脅威を感じただろう(白鵬が若い伸び盛りの時なら、それもいい)。

 

双葉山白鵬、どちらが強いか知らない。しかし、私が白鵬双葉山に及ばなかったと見るのは、こういうところにもある。横綱は勝たねばならない、強くなくてはいけない、それはその通りだが、その先にあるものは白鵬の視野にはなかっただろうか。

 

もし白鵬横綱になったとき、教えを請いに訪れたのが大鵬ではなく双葉山時津風だったら、また違った境地に達していたのではないか――時代的にあり得ないことだが、そんなことも考えてしまう。

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とにかくも、正代戦の突飛な立ち合い、そして千秋楽の照ノ富士戦での張り手、カチ上げを置き土産に、この稀代の横綱は土俵を去った。あれが俺の相撲の集大成だというように――。

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番組の中で白鵬双葉山について、「今から相撲を取るという顔をしていない」「何で人間がこんな顔になれるんだ」と語っている。